8/25(土)点滅信号(前編)


男の一人暮らしも長くなると得意料理の一つや二つあるものである
実家住まいの時には全くと言って良い程包丁を持たなかったのに
今となっては、ニンニクの産地にまでこだわってしまう

いつか、8時間かけて作ったスパゲティペスカトーレを10分で食べた時の快感は少し病的だと
己を心配した

しかしながら、自炊と言うのは、自分の好みの味付けが出来ると言う点が非常に嬉しい
別に外食の料理にケチを付けている訳ではないが・・・
最近は、ファーストフード店から足が遠くなったのは事実

年令を重ねる度に着々と舌の感覚が敏感になってきているんだろう
それもまた一興

一生のうちに何回使うか分からない調味料を買ってみるものの
案の定一度しか使わないまま放置されている香辛料
世の男の料理とは、往々にして自己満足そのものだと感じている


春も終わる頃、同じく料理好きな男友達と『料理の腕を磨く会』なる
いわゆる花婿修行をする事になった

片道35キロも離れた彼の家へは、バイクで向かう
何度となく通った道のりの為、一時間弱の移動時間も差程苦痛を感じない

『おのさんいらっしゃい』
『おいっす これお土産のコーヒー(○印)ね』
『サンキュー』
『それで、今日は、何を作るんだい?』
『今日はね、いい加減ピザを生地から作ろうと思うんだ』
『いよいよやるんだ!』
『この為に、計量器を買って来たんだ』
『どこまで本気なんだい?』
『やるなら徹底的にやった方が楽しいじゃない?』
『ごもっともだわ』

軽い興奮状態を押さえながら酵母を微温湯で溶かし
その溶かし酵母と粉をこねる
続いて水と塩とオリーブオイルを入れる
数年前に自宅にてうどんを作った事があるが
それに比べるとピザ生地は、かなりドロドロである
例えるなら昔のバケツに入ったオモチャの『スライム』が良い所だろう

不安を感じながらも10分程こねると、少しづつ固さが出て来てパン生地の様になった
それを1時間程寝かせる

その時、前日の夜更かしで睡眠不足の僕は、眠くてしょうがなかった
友達には悪いと思ったがソファーで少しだけ仮眠を取る事にした

『トマトソースは作っておくから安心して寝てて良いよ』
『なんだかお邪魔してるのに悪いね』
『気にせず寝てて』

オリーブオイルでニンニクを炒める匂いが刺激的だったが
そのまま眠りに落ちた


『こりゃー旨いぜ!よぉ!おのさん!!このトマトソース!!』
『もっ?』

どれだけ時間が経ったのか分からない
彼の声に反応するのが手一杯だった為、声にならない声を発するのが精一杯だった

『そう・・・そりゃー楽しみだ・・・』
『楽しみにしててよ!』
『あぁ・・・睡魔がバブルの様に迫って来た・・・』
『何それ?』
『バブルが・・・バブル期が・・・』

そこまで言うと、自然と眠りに落ちた

『よーし!もう発酵も充分だっ!』
『もっ?』

そうか、なんだかんだ言って一時間寝させて貰った事になるのか・・・
さすがに起きなくては、彼一人に作らせては悪い

『どう?おのさん?バブル期は?』
『うん・・・はじけたから大丈夫』

完全に不毛な会話であるとは分かっていても
バブル期などと言ってしまった手前、会話に乗らなくては、この上ない失礼にあたるので
咄嗟にそれは口から溢れた

見れば大きく膨らんだピザ生地がボールの中で騒然と座っていた
正直、彼が二人で500グラムの粉を使ってピザを作ると言った時
若干の不安は感じていたが・・・なんとなくその不安は適中した様である

『だ・・・大丈夫かね?こんなに食えるかね?』
『食べ終わるまで帰らなければ良いんじゃない?』
『そーゆーシステムだっけ?この家?』
『まぁ、焼いてしまえば美味しくてペロっと食べちゃうよ』
『うん・・・そーだよね・・・』

勿論、不安が消える兆しはまるで無い

ふっくらと膨らんだ生地を4等分に分けてそれをピザの形に整える
そこに、彼のお手製のトマトソースをたっぷりと乗せる
この時点で、かなり本格的なピザになっていた

しかし、ここからが彼の本領発揮である
ナチュラルチーズ・モッツァレラチーズ・チェダーチーズ・ゴルゴンゾーラ・パルメジャーノチーズ
チーズピザとしては、かなり贅沢な物だ

更に、トマト・ソーセージ・生ハム・ルッコラを乗せる
きっとピザを窯に入れる前は、外周よりも内側は、凹んでいるはず
しかし、彼の作るそれは、確実に山となっている
もし、こんなピザをお店で注文したら3000円は軽く取られるだろう
これも、自炊の特権なのかもしれない

オーブンレンジの中でクルクルと回りながら次第に色付いて行くピザに興奮して来た
しかし、ここに来て、巷で噂の『睡魔のバブル』がやって来た

『ゴメン・・・この焼いてる間、ちょっとだけ横にならせて』
『大丈夫?こんなに興奮してるのに眠いって相当じゃない?』
『大丈夫・・・』

そう言いながらソファーに体を預けた
1分もしないうちに、チーズの焼ける良い匂いが部屋を占領していた

『バブルはじけた!!』

茶番だと分かっていても恥ずかしく無い
それよりもオーブンの中が気になる

今にも噴火しそうな火山の様に、チーズがグツグツとしていた

その瞬間、自宅でもピザは1から作れるものだと思った
しかし、もし女性客にこんなピザを出したら、嫉妬されるのが落ちかなぁと桃色心が冷えた
所詮、自己満足だ!自分が食べる為に焼けば良いじゃないか!
と思っていても、誰かの為にじゃなければ、こんな手のこんだ料理は作らないだろう

『もぅ良い頃合かも・・・』
『おっ!来た!?』

彼のタイマーが作動
熱々のそれを取り出したら、溜め息が溢れた
どう考えても旨いだろう・・・これ・・・

さっそく焼き上がったピザを半分に切って同時に頬張る
答えは、言う間でもない
こんな生地よりも具の方が多いピザなんて聞いた事ないし
勿論、始めての味であり、その食感である
こんなに感動するなんて思わなかった
あっという間に一枚目を食べ終わる

続いて二枚目を焼きはじめる
胃が動いているせいなのか、感動のせいなのか定かでは無いが
『睡魔のバブル』は、はじけっぱなしのままだ

十数分後二枚目が焼き上がる
やはり旨い
同じ材料なのに一枚目の感動を上回る程の旨さなのは、それ程美味しいと言う事なんだろう
これもあっと言う間に食べてしまい
三枚目は、僕がトッピングをする事にした
いよいよ、三枚目ともなると、若干あっさりした感じにしたかったので
トマトソースを多めに、チーズを少なめにルッコラとトマトをメインにしてみた
焼き上がったピザは、予想通りの物に仕上がっていて満足だった

しかし、ここに来て、胃袋の許容量に達してしまう気がした

『ねぇ・・・四枚目って焼く?』
『焼かないで取っておく事なんて出来ると思う?』
『だよね・・・』
『何?おのさん?限界?』
『まぁ寝起きだからさ・・・』
『知らないって!』

彼は、最後の生地に残りの具材を全部乗せた
それは、今までの中で一番の山となり・・・若干の諦めを感じながら○印のコーヒーを飲んだ

焼き上がったピザは、迫力そのものが凶器となっていた
多分、これを胃袋に押し込んだらこの家に来た事さえも後悔してしまいそうな気持ちになるだろう

『あのー・・・僕・・・4分の1カットで良いわ・・・』
『え?』
『だって・・・無理だもの・・・残りは食べてよ』
『そう?困ったなぁ・・・』
『分かるけど・・・』
『いや、そーじゃなくて』
『俺も4分の1カットで限界だわ』

人は、素直になれない生き物である
ここでこんな告白を受けても既に焼き上がったピザは今や遅しと食べられるのを待っている
なにはともあれ、このままではいけないので4分の1カットを食べる
悔しいのが、この旨さだ
苦しいのに旨いんだから、若干憎たらしく思えて来る
二人、完全に無理をしているが思いは一緒だ

コーヒーを飲み干して、沈黙が流れる

沈黙を破るかの様に彼がテレビをつける
陽気なアメリカ人が爆弾片手に実験をしているテレビ番組がやっていた
彼も僕も、工業系の学校の出身の為、実験の様な番組は食い入るように見てしまう
爆弾が爆発する度に、何やってんだと、笑いがこぼれる

少し時間が経った事によって、胃が少しだけ落ち着いた
しかし、残りのピザは食べられそうにない
とにかく、もう遅い時間だ
彼だって、明日は普通に会社があるはずだから、ここら辺で帰らなければ

『残して悪いんだけど、明日の朝にでもレンジで温めて食べて』
『そーするわー』
『それじゃーまたねー』
『帰り際に、バブル期が来ない様に気を付けてね』

そう言って、玄関を出る
帰り道は、胃がフル稼動しているが、全然消化出来なくて苦しいと文句を言っている様だった
正直、帰るのが面倒だ
バイクのエンジンをかけて、家路を急ぐ
もう夏が来ようとしているのに、肌寒い
でも、今は、逆にそれが気持ち良かった


8/31(金)点滅信号(後編)


この時間になれば、環七だって車通りがまばらになる
今のまま走れば40分以内に家に到着するだろう

途中、ガソリンが無くなりそうだったからガソリンスタンドに寄った
ガソリンの高騰の煽りを受け、セルフのスタンドが増えたとの事だが
実は、このスタイルは嫌いじゃなかった
自分で全てを行うから面倒ではあるけれど
その作業自体が何故か楽しいのである
タンクギリギリまで給油したら、また家路を急いだ

家に到着しても空は、まだ暗いままだ
長旅に疲れたのもあるし・・・それよりもバブル期がやって来たのである
軽くシャワーを浴びて早く寝てしまおう

バイクを駐車スペースに停めて、エレベーターで自分の部屋のフロアーに登る


事件とは、唐突にやって来るものである
冷や汗が額を流れた

少し考えよう
なぜ、こんな事件が僕に降り掛かったんだ?
理由を考えるよりも、今の状態を打破しない事には何も始まらない

普段とは違う行動をした時に起こりうる事件

どこにも鍵が見当たらないのである
普段は、バッグの中に入れておくはずなのに・・・
眉間に皺を寄せて考えてみると
きっとズボンのポッケに鍵を入れたままだったんだろう

だとしたら問題だ
バイクでの移動中に落とした可能性があるからである
もしくは、彼の家でソファーに寝転がった時に、ポッケから落ちたか・・・
どちらにせよ、部屋の前でたたずむしかない

どうする?
鍵の110番を呼ぶか?
しかし、それはかなり高額だと聞いた事があるので、少しだけ踏み止まる事にした
近所の100円ショップに行ってヘアピンを買って来よう!
そして、うまく曲げて開錠する・・・素人が簡単に出来るなら世の中は空き巣天国だ
非現実な事だって考えられる脳内パニック状態
とにかく、彼に電話して、鍵があるかどうかを聞こう!

電話をバッグから取り出したが、何故か電源が切れている
電池切れだ・・・

どちらにせよ、この場にいてもしょうがない
頭を冷やすかの様にバイクのエンジンをかける

ひとまず、トイレに行きたかったので近場のコンビニへ行く事にした
コンビニの店員にトイレを貸して欲しいと告げ、トイレへ向かう
その途中に陳列されたヘアピンが目に入ったが、あえて目を背けた

トイレを済ますと、何か買おうと思い店内を物色
食べ物も飲み物を、今は受け付けられない
胃袋だけは、重労働を続けていた

財布を覗くと、1000円ちょっとしかなかった
これでは、マンガ喫茶で時間を潰すには寂しい金額だ
せめて気分だけでもと思い『美味しんぼ』のコミックを買った
その時は、どこで読むかも決めていない
脳内パニックは、まだまだ続いている様だった

とにかく、状況を整理しよう
鍵が無いから部屋に入れない
しかし鍵は、どこにあるのか分からない
鍵の110番を呼ぶにも、今の所持金では、到底支払い不可能
鍵のある場所として候補にあげられるのは、『道端』と『彼の家のソファー周辺』
前者なら、見つかる事は、ないだろう
後者なら、問題は、その時点で解決される

ここは、一か八か後者にかけてみよう
バイクは、先程通った道を逆走するかの様に駆け抜けて行く
また35キロの道のりを走るのかと思うと、僕も・・・きっとバイクもイヤだろう

1時間もかからずに彼の家の前についた
よし、チャイムを鳴らそう

しかし、時計を見れば3時30分だ
ここで彼を起こしてしまうのは、あまりにも迷惑な話だ

そこで、彼の起きる時間を想定してみた
会社は、家の近くだからきっとギリギリまで寝ているだろう
『8時位に起きるかな?』
独り言が溢れた

予想ではあるが、少なくても4時間30分もの時間を潰さねばならない
考えただけで、頭痛がする
外気温が低い事も、後押しして、溜め息ばかりついてしまう
このままでは風邪をひいてしまう恐れがあったので、バイクの中にしまってある雨具を着込む
これは、思いのほか暖かく寒さを感じなくなった

オレンジ色の雨具を来た僕は、彼の家から程近い24時間営業のスーパーマーケットへ行った
店内を物色して時間を潰そうとしたのである
しかし、店内は、外よりも寒く半袖でいるには、苦痛であった
と言っても、雨も降ってないのに雨具を着たまま店内に居座るのはおかしな話だ
そこで、店の外のベンチに腰をかけ空を見上げた
真っ暗だった

外灯の光に照らされ、どうしようか考えた
答えは一つしかみつからない・・・


いつ読んでも面白いマンガである
僕が小学生の頃にはアニメ化された程の人気コミックだ
この主人公の二人が、後に結婚する事になる訳だが
その事実を知った時、少しだけ嫉妬したのは、秘密である

半分ほど読み終えた頃、またしてもバブル期がやって来た
しかも、かなり大きなバブルの様で、目蓋が非常に重い
ここで寝てしまおうか?
しかし、それはお店に迷惑だ
せめて、人が居ない所にしなくては・・・

バイクの運転も、かなり怪しいモノになって来たが
落ち着いて眠れる場所を探した
すると、目の前に閉店したスーパーが有った
店の前には、ジュースの自動販売機があり、その隣にはベンチがある
ベンチの前にバイクを駐車して、寝転がった

生まれて始めての野宿である
この頃には、人の目なんか気にしていられない程バブルが膨れあがっていた
とにかく、眠る事に集中したいのである

しかし、いざベンチに横になると、若干ドキドキしてしまって寝つけない
こんなに眠いのに、寝れないとは、どう言う事なのか?
やはり、枕が必要だ

おもむろに、着ている雨具を丸めて枕代わりにした
すると、どんどん意識が遠くなって来た

かん高い声が僕の耳を通過して行った
中学生が登校している
あぁ・・・ようやく寝れたのかと思うと、ホッとした
時計を見ると8時を少し過ぎていた

ヤバイ!ここで、彼に出社されたら、全てが水の泡だ
急いで彼の家へ向かった
良かった・・・自転車がまだある
ここで、いよいよチャイムを鳴らす
しかし、返事はない
もう一度チャイムを鳴らすが、返事はない

電話を見たら、ギリギリ発信出来る程の電池があった
電話をかけるが、返事はない

なるほど・・・寝ているんだ・・・
しょうがない、バイクにまたがり、コミックを広げる
30分後、近隣の人たちが出社して行く
そこで、電話をしてみた

『はい?』
『朝早く悪いんだけど、玄関を開けてもらって良い?』
『え?おのさん、どーゆー事?』
『全ては、玄関を開ける事から始めて欲しいんだが』
『分かった・・・』


数十秒後、玄関が開けられた
明らかなる寝起きの顔がそこにはあった

そこで、事の次第を話しながらソファーの周辺を探した
見当たらない・・・やはり道端なのか・・・
一応、ソファーの隙間も探した
その時、全ての問題は、解決されたのである

これから、また35キロの道のりを帰る事になるのだが
長かった1日が間もなく終わる
安堵した気持ちになり、落ち着いた頃
彼は、笑いながら冷めたままのピザを食べていた